16件の議事録が該当しました。
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該当会議一覧

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敦賀市議会 2020-06-29 令和2年第4回定例会(第5号) 本文 2020-06-29

明治17年、長浜敦賀間に日本海側で初の鉄道が全線開通し、明治45年からは欧亜国際連絡列車が運行され、敦賀港からシベリア鉄道を通ってヨーロッパへとつながっていた史実と、日本最古鉄道トンネルである小刀根トンネルをはじめとする旧北陸線トンネル群や、現存する日本最古の駅舎である旧長浜駅などの文化財が融合し、物語を構成しているものであり、平成29年度より登録に向け、3市町で協議会を設立し、ガイドブックの作成

敦賀市議会 2019-03-06 平成31年第2回定例会(第2号) 本文 2019-03-06

そういう中で、杉原千畝さんもシベリア鉄道にかかわっていらっしゃった。ロシア領事館もあり、ロシア日本との協定も結ばれていた。そういういろいろな歴史的な今まで余り表に出なかった部分でのつながりもある中でのこういったオンリーワン、人道の港、優しい日本人がいたまちというフレーズの、言ったらグレーの部分がまだ幾らもありまして、そういう中では研究が進んでいるとも言いがたい。そういう部分もあります。  

敦賀市議会 2015-03-09 平成27年第1回定例会(第2号) 本文 2015-03-09

ところが、じゃシベリア鉄道に乗ってその旅をしようという思いはなかなかないんです。物すごくおじいちゃんやおばあちゃん、ひいおじいちゃんやおばあちゃんが苦労したルートなんですね、ロシアを抜けるまでは。命からがら皆さんビザを持って来ました。そして敦賀へ入ったときに、ようやく、要するに国境を離れたときですね。ソ連国境を離れたときに思ったその思い。  

敦賀市議会 2008-09-17 平成20年第3回定例会(第2号) 本文 2008-09-17

ポーランド難民として杉原さんが駐在していましたリトアニアのカウナス領事館へ、そこからビザを書いてもらい、シベリア鉄道の長い旅を経てウラジオストク、そしてそこから船で敦賀まちへ長い長い旅を重ねてきたその体験は、非常に貴重な文献となります。  今ここに、この場所に生きている私たちはほとんどが戦争を知らない世代です。

敦賀市議会 2007-12-11 平成19年第5回定例会(第3号) 本文 2007-12-11

近代ではシベリア鉄道を介して遠くヨーロッパ諸国と結び、東洋の波止場としてその名を知られ、岸壁には欧亜連絡国際列車東京から敦賀、そしてロシアウラジオストクへと入り、シベリア鉄道に介したのであります。  大陸発着点ウラジオストク鉄道は、私も5年前にロシアへ行ったときに見てまいりました。その当時に思いをはせ、敦賀ロシアヨーロッパへのロマンが私なりに広がったのを思い出します。  

敦賀市議会 2007-12-10 平成19年第5回定例会(第2号) 本文 2007-12-10

また、今お話出ましたようにシベリア鉄道これは大変歴史ある鉄道でありますから、あそこの安全確保が確認されてまいりますと、先ほど言いました中京方面にある優秀な企業からのいろんな物流というのは十分可能性があるところですので、今私どもといたしましては、いろいろそういう調査もしております。

敦賀市議会 2007-09-14 平成19年第4回定例会(第3号) 本文 2007-09-14

そういう意味で、国際交通拠点として繁栄したこの港というのは、ほかにはない特色であるというふうに思っておるところでありますし、特にそういう中にあって、1920年にシベリアに置き去りにされ、本当に苦しまれていたポーランドの孤児の皆さん方がこの敦賀に上陸されたという歴史的な事実もございますし、また1940年には、御承知のとおり杉原千畝氏の発給した、いわゆる命のビザによって多くのユダヤ人難民皆さん方シベリア鉄道

敦賀市議会 2007-03-07 平成19年第1回定例会(第2号) 本文 2007-03-07

また、北東アジア物流ということで、かつての欧亜国際連絡列車の再現といいますか、今自動車産業界でもシベリア鉄道を使っていろんな荷物を運ぼうという計画もあります。そうなりますと、敦賀港というものも非常に優位性のある場所だというふうに認識をいたしておりまして、日本海側におけます重要な港であるということを訴えてまいりたい、このようにも思っておるところでございます。  

敦賀市議会 2006-09-15 平成18年第4回定例会(第4号) 本文 2006-09-15

そういったことで、ウラジオストクから原油を受け入れることもいいですが、やはりシベリア鉄道で京都へというキャッチフレーズのもとに、日本からはシベリア鉄道ヨーロッパへというような構想のもと、やはり大きな夢を持って取り組みがないと、小さなことばかりやっておったのでは到底敦賀の港が回復しません。  

敦賀市議会 2000-12-14 平成12年第5回定例会(第2号) 本文 2000-12-14

明治42年3月、日満露連絡運輸会議において、関門長崎から満州へと連絡する関門長崎ルートと、敦賀からウラジオストクへと連絡する敦賀ルートが開設され、さらにシベリア鉄道経由でヨーロッパに至る欧亜国際連絡運輸明治43年3月に実現されました。その結果、明治45年6月15日から新橋発金ケ崎駅直通の欧亜国際列車が週3便で開始されました。  敦賀の町もそれに合わせて国際色豊かになりました。

敦賀市議会 2000-03-13 平成12年第1回定例会(第3号) 本文 2000-03-13

本市は、関西、中部、北陸、そして海を通して日本海へと通ずる交通の要所として栄えた町であり、鉄道とのかかわりは古く、明治15年に北陸で初めて開通し、明治45年には東京シベリア鉄道を結ぶ重要な拠点駅として世界に知られるようになり、その後、昭和37年に北陸トンネルが完成し、北陸本線の全線が電化されたわけでございます。さらに、昭和49年に関西北陸を結ぶ湖西線が完成し、関西との距離がさらに短くなりました。

敦賀市議会 2000-03-10 平成12年第1回定例会(第2号) 本文 2000-03-10

明治35年(1902年)に開設された敦賀ウラジオストク航路に、真に世界の大公道となった当時の敦賀港状況はと言いますと、鉄道庁によって築造された防波堤に囲まれた狭隘な海面が唯一の設備で、汽船が入港しても接岸できる埠頭はなく、被覆面積が狭いため、風波が立てば乗船も下船も思うに任せず、このために敦賀港定期出港がおくれ、ウラジオ発シベリア鉄道寝台車に間に合わない状況が頻発しておりました。

敦賀市議会 1998-03-12 平成10年第1回定例会(第2号) 本文 1998-03-12

こうした敦賀港の衰退を打開したのが開港指定であり、シベリア鉄道の開発でありました。当時、開港指定運動の先頭に立って、東奔西走されたのが敦賀港の大恩人、大和田荘七翁でありました。  翁は開港指定4年前、明治28年から既にロシアウラジオストクに自費で調査員を派遣し、ロシア極東地方の事情を調査させていたのであり、対岸貿易重要性を市民に訴えていたのであります。  

敦賀市議会 1997-09-22 平成9年第4回定例会(第3号) 本文 1997-09-22

大正時代欧亜国際連絡列車新橋-金ケ崎間が1912年に開通し、それをつなぐシベリア鉄道によって1916年より日本から欧州まで、今まで1カ月ぐらいかかった船旅が2週間ぐらいで行けるようになった時代があります。昭和に入りまして、戦前は大きく大陸への玄関港として栄えましたが、戦後は閉ざされた大陸により港も衰退してまいりました。

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